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落ち葉 [ふるさと]

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 今年はサクラの紅葉が美しかったように思います。
 
  今、落ち葉は地面を豊かに覆っています。しかし、童謡「たき火」の情緒で落ち葉を見ることができないのです。たき火で「いも」を焼く情景も懐かしさばかりで思い出すことはありません。
 
 落ち葉、特に杉の葉は我が家にとって大切な燃料でした。
 
 生家は、広い敷地に母屋や納屋、家畜小屋などが点在していました。少しは庭木が植えられ花もありましたが、庭の主な役目は農業の作業場だったのです。敷地を「屋敷」と言っていましたが、西側には杉の木が主の林になっており、その中にクルミの木や栗の木がありました。杉は、将来家をて替えるとき材料にするものだったようです。西風から家を守る役目もあったようです。
 
 燃料として重要な杉の葉は、子供が集める仕事でした。杉の葉を拾うために林の中に入るのは恐ろしいことでした。なにが出てくるかわからないからです。杉の葉は、ご飯を炊くかまどで燃されました。或いは、囲炉裏で燃され、自在鉤につるした鍋で料理が作られ、串に刺した魚が焼かれました。今のように電気ガスはありません。精々木炭や練炭を燃料とした七輪です。
 
 親は、子供を、例え小学生であっても働き手の一員と見なし、子供の教育や躾けに特別に気を遣っているようには見えず、子供と一緒にゲームなどで遊ぶことはありませんでした。仕事が忙しかったのでしょう。働きづめだったのです。教育は、先生を尊敬し先生にお任せしていたようです。
 
 私は、いまもこのような田舎に根を下ろしています。繋がっているつもりです。勿論、子供のころの田舎と今は比較できない程変化しています。しかし、昔の田舎を私は引きずっており、何か判断しなければならないとき、その尺度にしているようです。もしかして、田舎とのつながりが切れたとき、多分私は漂泊者になってしまうでしょう。 

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庄内柿、到着。 [ふるさと]

 今夕、6:00からNHK・FMで映画音楽(今日はスポーツものの特集とか)を聴きながら皆さんのブログにお邪魔したり書いたりしています。

 きのうは雨が時々強くなり、きょうも雨模様の曇り空、明日も明後日も晴天は望めないようです。

 うんざりするような気分を吹っ飛ばすことがありました。連れ合いの実家から「庄内柿」が届いたのです。全国各地に有名な柿がありますが「庄内柿」も負けないくらいうまいです。

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 一箱届いたのですが、近所にお裾分けして真ん中に隙間が出来ました。

 欲深い私としては、ラ・フランスも入れてもらいたかった。

 今はどうかわかりませんが、昔は庄内の多くの家庭の庭に柿の木があり、季節になると柿の収穫を言いつかったものです。焼酎で渋抜きした柿のうまさを思い描きながら、木から落ちないように気をつけて採ったものです。

 実家のお兄さん、有難うございました。軟らかになる前に(軟らかになったのもうまいですが)みんな頂いてしまいます。


タグ:庄内柿
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ツタの思い出。 [ふるさと]

 台風18号、非常に強い台風が四国から近畿地方仁上陸する予想ですね。長雨に続く大雨や強い風で被害が出なければいいと思うのですが、情報に早く対応して万全を期したいと思うのです。自分の生命は自分で守らなければならないのですから。

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 先日、散歩の途中で壁面に茂るツタ(蔦)を見ました。最近、見ることが少なくなったと思うのですが。

 ツタはお金持ちのお屋敷の建物に生えているという思いが長年ありました。

 私の祖母は、昭和20年8月に喉頭ガンで逝きました。敗戦の日の前か後ろか定かではないのですが、暑い日で、開け放された奥の座敷で息を引き取り、その時の姉の泣き声が記憶にあります。太平洋戦争が始まった年に生まれた私、しかも片田舎のこと空襲もありませんし機銃掃射もなく戦争の記憶はほとんどありません。毎日の生活のことも。

 後で思うに、祖母が町の病院に入院していて時々母親について行っていたようです。病室がどうで祖母がどうしていたかなど記憶に少しもないのですが、ツタだけは鮮明に覚えています。

 町の病院(今で云うなら個人の医院)は大きな病院で建物が何棟か建っていました。その建物のひとつにツタが絡まっていました。我が家などにはない植物です。珍しく思いました。そしてその時なのか後でなのかわかりませんが(ツタという植物の名前も知らなかった)、これはお金持ちの家にあるものだと脳裏に刻み込んだようです。大きな建物があるということはお金持ちという短絡があったようです。

 今でもなんでツタの記憶だけが残ったのかわかりません。その年の12月に祖父が逝きましたが、その時の記憶は全然ないのです。

 何十年前になるでしょうか、ペぎー葉山が「学生時代」で、「つたのからまるチャペルで 祈りを捧げた日・・・」と歌っていました。私にとっては遠い昔のことです。

 


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季節の野菜 [ふるさと]

 5月5日から降り続いた雨が、今朝は雷雨となりましたが、昼前に上がりお天道さんが顔を出しそうなので散歩に出ました。曇天なのに、久しく暗い穴蔵に閉じこめられて外に出たようなまぶしさでした。しかし、少し歩いたらお天道さんが厚い雲の中で、しかもあちらこちらに黒い雨雲が出ていました。雨が降り出す前に戻らないと困るなと思い急ぎ足に。ゆっくり写真を撮ることはできませんでした。
 
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高さが3m位の石垣の上から垂れ下がっている植物がありました。またまた名前がわかりません。ピンクの部分が花びらだと思うのですが、開いているものはありませんでした。開かなければ受粉できないでしょうに。

 

 

 

 

IMG_2973ap350.jpgまだ熟していませんが「桑の実」だと思います。

敗戦間もない小学低学年の頃、桑の実をずいぶん食べました。カイコを飼っている家があり、畑には桑の木がたくさんありました。それに登って、大きな黒に近い紫色の実を食べました。どんな味がしたか甘かったのか酸っぱかったのか覚えていませんが、お菓子のおやつがなかった私たちにはすばらしいおやつでした。ただ、食べると腹をこわすと言われており、食べたことを親に見つかると怒られました。見つからないように工夫するのですが、唇も舌も紫色では見つからないはずはありません。私たちは桑の実を「くわご」と言っていましたが方言でしょう。

 

 


 子供のころ、甘いおやつはありませんでした。なにしろ砂糖もなかったのですから。

 私の生家は農家でしたので、畑でとれるものがおやつになりました。従って、夏場には食べるものが結構ありました。トマト、ウリ(メロンはなかった)、スイカ。いちごは病気にかかりあまり採れなかった。きゅうりも味噌を付けておやつになりました。ジャガイモ、サツマイモ・・・茹でたり焼いたり。枝豆もあった。稲作農家でありながら、銀しゃりは盆と正月だけでしたが、ひもじい思いはしなかったと思います。

 食べるものに季節感がありました。
 刻んだキャベツとキュウリの浅漬けが食卓に登るのは梅雨の終わりか初夏。それに刻んだ茄子が加わるようになり、丸のままの茄子だけの漬け物が十分食べられるようになるのは真夏でした。今と違って露地栽培ですから時期にならないと野菜は大きくならないのです。でも、いつも旬のものを食べていたのですから、今考えると贅沢と言えるかも知れません。

 勉強もせず、塾もなく、暗くなるまで遊び回り、腹が減ればよその畑のキュウリを取ってかじり・・・。敗戦後、親たちはさまざまな苦労を強いられた時代だと思うのですが、子供は結構幸せだったのかも知れません。


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方言にうっとり。 [ふるさと]

 シジュウカラの明日のためのヒマワリの種を餌台に置きに出たら、月がでていた。まだ日が落ちないので少し赤っぽかったが、この月は山形県の、雪に覆われた庄内平野や鳥海山、月山も照らしているだろうなと思った。

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 それには理由がある。
 昨夜、4ch日本テレビで藤沢周平原作、山田洋次監督の「隠し剣 鬼の爪」を観たからである。海坂藩のモデルは鶴岡市。連れ合いのふる里である。この映画でも鶴岡弁が全編を覆う。私は、義兄の口調を思い浮かべながら映画を観ていた。

 たとえば、訪ねてきた子供が入り口で声を張り上げる。
 「ねーーーーっ!ねーーーーっ!」
 標準語に翻訳すれば「ごめんください」ということ。

 ゆったりと話す方言はいいなと思い、よその土地の人にはわからないだろうなと思った次第。


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校庭のポプラ。 [ふるさと]

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 この木を撮るとき、普段思いもしない母校を思い出した。

 東北の片田舎の小学校に”ポプラ”があった。高さは10m以上だったが、それが1本だったか2本だったかはっきりと覚えていない。

 明治36年生まれの父親も昭和5年生まれの兄も、この学校を出た。

 入学したころの校舎は、体育館もなく平屋建ての小さなモノで、今では何処へ行っても見ることはできないと思うが、屋根もない廊下が外に付いていた。お寺の本堂の外側をぐるっと回る廊下のよう。狭い校庭を走り回り、教室にはいるときは土の上に置かれた踏み板のところに下駄や草履をそろえて並べ、数段の階段を上って廊下を踏んで教室に入った。各教室の前に下駄脱ぎ場があったのだ。

 時間の始まりや終わりは、小使いさん(用務員さんとは言わなかった)が鐘をたたいた。

 私が卒業したときの同級生は28名。敗戦後の子供がおおぜいいた時代にである。1学年1クラス。全校で150~160名。教室は後ろ半分には机がなかった。空いているところは遊び場。

 勿論、校長先生もいたし教頭先生もいたし、各学級に担任の先生もいた。思うに、少人数のため先生の目が届き、落ちこぼれなどという生徒はいなかったと思う。中学は街の大きな中学(1学年350人?)に通ったが、皆成績はよかったと思う。

 先生との思い出もたくさんある。例えば、今では考えられないことだが、メンコやビー玉を先生とした。大人と子供。当然先生が勝ち、職員室の机には戦利品がたくさん入っていた。

 時代が進むにつれ、校舎は建て替えられ、生徒数も減った。でも、今も少し敷地が移ったが、体育館もある2階建ての校舎の学校がある。生徒数は50人もいないだろう。だが、分校ではない。独立した小学校なのだ。町の小学校まで車で15分もかからないのだが。

 5年生が毎日校庭を竹箒で掃いた。掃けるほどの広さの校庭。秋、ポプラの葉が散るころは落ち葉が戦利品だった。校庭の、民家との境に立っていたポプラは他に大きな木がなかった校庭の主だったかも知れない。


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スケートの思い出。 [ふるさと]

 世の中は今日「成人の日」で祝日。お嬢さん方の振り袖姿が街にあふれる日。

 7時45分に家を出て、車がないので坂を上り階段を下り保土ヶ谷公園を横断して「保土ヶ谷スポーツセンター」を目指す。平日は9:00開館だが、祝日の今日は7:30に開館している。

 連れ合いは、車がないので水泳はお休み。足の親指を痛めているので歩けないと。

 保土ヶ谷公園の「ひょうたんプール」に薄氷が張り、朝日が反射していた。

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 氷は多分すぐに溶けてしまうだろうが、冬であることの証明である。氷を踏んで遊ぶなどということは当地では期待できない。せいぜい霜柱を踏んで砕ける音を楽しむだけか。

 それでも氷を見て子供のころの遊びを思い出した。スケート遊びである。

 私が生まれ育った東北の片田舎は、農村地帯で冬になると田んぼや池や沼や川が凍った。 上にのって遊べる厚さになった。天然スケートリンクだ。

 私の小学校低学年は、太平洋戦争敗戦直後で、周りに今のようなスケート靴はなかった。なにで滑ったかというと、特殊な器具があった。それは今のスケート靴から靴を外したものと思えばいい。ゴムの長靴を履いて、その器具の上に足を載せてベルトで足の甲の部分と足首にくくりつけるもの。多分現物を見ないと理解を得られないだろう。材質は確かジュラルミンと言った。

 親は物資もお金も不足している時代に子供におもちゃを買い与えるわけだから、数年間使えるように大きめのものを買うのが常だった。よくああいうもので怪我もせず遊び回ったものだ。川に沿って何百mも滑る。

 何で覚えたのか記憶にないが、アイスホッケーのまねごともした。

 太陽がだんだん高くなり気温が上がってくると氷は溶けてくる。滑っていくと、「バリバリッ」と氷が音を立てる。ひびが入るのだ。氷の表面が上下に波打つようになる。そろそろ危険だ。氷が割れて落ち込むことになる。水深が深いところでは全身が水没し、氷の下に入ってしまうと助からない。十分に注意して滑る。それでも落ちることがある。大抵は腰まで水に浸かる。

 友達の手を借りて陸に上がるのだが、それからが大変。濡れ鼠の恰好では家に帰れない。こっぴどく怒られるからだ。枯れ草などを集めて火をたきズボンなどを乾かす。乾いたからといって親にわからないはずはないのだが、一生懸命だった。ただ、今思い出せないのは、多分マッチで火を付けたと思うが、誰がマッチを持ってきていたのか。

 塾も何もなかったから、学校が休みになれば遊ぶことばかり考えていた。それがよかったのか悪かったのか。

 中学生になるころに、「耕地整理」が行われた。田んぼの高低を平らにし、変形の田んぼを長方形にする。大型農業機械で作業が出来るようにした。

 その結果、田んぼは同じ大きさで整然と並び、農道は真っ直ぐになり堀は用水路となった。池はなくなり、用水路は冬場、水が流れなくなった。何処を見ても氷は張らなくなった。

 スポーツセンターで汗を流しながらふと思った。連れ合いが今日泳がないのは、去年の今日、ガンで逝った姉の命日だから外出せず家で静かに思いを寄せようとしたのではないかと。 

 付録

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プラタナスの実。

公園で枝おろしをしていた管理員さんから頂いた。


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