家路 [ふるさと]
新聞のコラムで読みました。
これから出動するよーー被爆の危険が待ち受ける原発事故現場の放水作業に向かうとき、東京消防庁の総隊長が奥さんに送ったメール。
奥さんの1行の返事「日本の救世主になってください」
どんな思いで・・・涙がこみ上げてきました。
連れ合いにあなただったら・・・と聞いたところ「頑張って」くらいだろうと。
きょうはあと二つ、わたしの涙です。
3月18日の夕方、東の空に月が出ておりいつにも増して明るく見えました。
いつもの通りきれいには撮れないことは分かっていたのですが、満月なのかどうかなんてことも確かめもせず、とにかくシャッターを切らずにはいられませんでした。
そして、涙がこみ上げてきて・・・手を合わせました。
後で知ったんですが、月は今何年ぶりかで地球に最接近しているんだそうです。そのために明るさも増しているようですね。
きのう(3月22日)の午前中に新聞のテレビ番組欄を見ていたところBS hi に『夢のオーケストラ』とだけ書かれた番組名を見つけました。
なんだろうと思いながら途中からでしたがスイッチを入れたところドキュメンタリーでオーケストラの練習風景が映しだされました。
このオーケストラは「京都学生祭典」のひとつとして一日だけ演奏するために結成されたものだとは後で知りました。
いろいろの大学から94人、プロを目指す音大生もいれば初心者もいるという一団。
8月から練習を始め10月が演奏会。
番組の後半が演奏会の場面でした。
聞きなれた曲が聞こえてきました。
ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』。
第2楽章、わたしは『家路』と云うメロディが聞こえたきたとき、涙が溢れてきました。滂沱、ぼうだ、滂沱。なにか琴線に触れることがあるのだ・・・・・・・・。上に書いた二つも、歳を取って涙腺の締りが悪くなったのかもしれません。よくクラシックを聴きますがこんなことは今までありませんでした。
云うなれば素人の集まり、技術的にもプロと比較にならないでしょうが、素晴らしいオーケストラに聞こえました。そして多くの人に感動を与えたようです。わたしも感動しました。音楽っていいですね!
世の中には感動することがたくさんあります。
二日続いた雨も上がり陽が射してきました。ウグイスも鳴いていました。きょうは余震が続きます。
2011-03-11 [ふるさと]
実家の兄と携帯電話で話しをし、状況が分かりましたので少し元気が出てきました。苦しんでいる方がたくさんいらっしゃるのに申し訳ないと思っています、自分だけよければそれでいいのか、と。
前記事で書いたのですが、震度7にしては倒壊した家屋が少ないことが不思議でした。
その後、研究者の発表を見て納得しました。
今回の地震波を分析したところ、建物を倒壊させるのは周期1~2秒の波だが、阪神大震災の時の2~3割程度だった。周期1秒以下の波に比べ周期1~2秒の波が弱かった。周期1秒以下の地震波が強いと、室内にあるものは揺れるが、建物への影響は少ない。
津波がなかったならばこれだけの被害にはならなかったのだ。
3月11日に翌日アップすべく(わたしとしては早い準備ですが)ブログ記事の下書きをしていました。たまたまチョット地震に関係している内容を含んでいますから、そして災害が起きたときの隣近所との付き合いの必要性を思いそのままアップします。
このトンネルについては11/1/31にアップしました。我が家の近くにあります。
昨年の7月下旬から今年の1月下旬まで耐震工事が行われていました。
疑問がありました。
ひとつはこのような交通量も少ない片側1車線交互通行、高さ制限3m,長さ100mの小さなトンネルでも高額(多分)な費用をかけて工事しなければならないのだろうかということです。
地震が発生し崩壊し、たまたま通行中の車が生き埋めになり死者が出たとすれば高額とはいえ工事費に代えられないものを失うことになります。理解することができます。
そして、最初からなぜ2車線にしなかったのだろうと。何か理由があるのでしょうね。
もうひとつの疑問。
工事の発注者が「水道局」でした。
道路・トンネルを管轄しているのは「建設局」ではないのだろうか。
なぜ水道局?
きのう現場でチェックをしている人に聞いて納得しました。
「こんにちは」
「こんにちは」
「すみません、ここの工事発注者は水道局でしたがどうしてですか」
「この道路の下に重要な2本の水道管が埋めてあります。そして、この道路は水道局のものなんです。トンネルの耐震工事の時水道管も耐震のものに替えました」
聞いてみるもんですね、人が通るトンネルというより生命にとって大切な水、水道のためのトンネルだったのです。
いまこのトンネルのこちら側と向こう側で(距離は離れています)水道管の取り換え工事が行われています。
教えていただいたとっかかりはあいさつです。あいさつなしでは先に進まなかったでしょう。
となり村に猫の子が生まれたことも知れ渡る昔と違い、いまは隣は何をする人ぞ、知ろうとすれば個人情報保護法が・・・、あるいは犯罪者の疑いが・・・。
地域のコミュニケーションはあいさつから始まります。
横浜市保土ケ谷区は大変大事なことをしています。
有難うございます。 [ふるさと]
80年生きてきて初めて経験する地震だった。しかし、津波の被害を受けた人と比べれば幸せな方である。
M8.8 [ふるさと]
ただし、箱同士はクランパーで固定し、上からつっかい棒で固定している。(左の写真の奥の白い棒)
このつっかい棒が効いていたのではないかと思う。
わたしの実家は宮城県栗原市。今回震度7を記録したところだ。とにかく地震が多い。
今回の地震の前触れとも思える3月9日の地震 マグニチュード7.3、震度5弱。
だが今回は・・・・。震度7!
彼女にはきのう何度電話をしても通じなかったのだが。彼女のところは電気、水、ガスが止まり、復旧したのは昨夜の11時だったとのこと。
ほっとした。
山では土砂崩れ、海では津波、平野にある実家は幸せなのかも知れない。
お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
新米到着。 [ふるさと]
寒くなりました。今朝の室温、19.5℃、ベランダの寒暖計は10℃でした。
数日前にホットカーペットを敷きました。今朝スイッチを入れておいたら我が愛する猫・タロウが来て、にゃぁにゃぁいいながらのたうち回っていました。暖かいところが快適に感じる季節になったのですね。
一週間ほど前、待望の新米が実家から届きました。一箱30kg弱。玄米30kgを精米して送ってくれるので30kg弱なのです。
この重量になると配達の人は大変です。担いできて留守では目も当てられません、そこで、荷物を持たずに在宅かどうか確認に来るか電話で確認かです。
今年は暑さが長引いたため米は小粒でよくないと云われていますが、我が家の米はどうか、まだ開けていません。銘柄は多分「ひとめぼれ」でしょう。
段ボール箱に印刷されている『おらほの米だっちゃ』は宮城県北の方言です。「おら」は私とかボクとか俺、「ほ」は~の方、~のところ。「だっちゃ」はだよね?翻訳すると、私のところの米だよね、となりますか。ちょっとニュアンスが違うかな?
米が届いて3,4日後、また段ボール箱が届きました。開けてみると、焼酎で渋抜き中の柿がビニール袋に入っており、11月5日頃に開けてください、と書いてありました。今朝開けて見たら20個入っており早速食べましたが、うまい具合に渋が抜けていました。
実家の庭に生っていた柿ですから、スーパーなどに並んでいる見事なものとは違い、小振りで見栄えもよくありませんが美味しいです。しばらく楽しめます。
この箱には他に白菜1個、からし菜?1束、ネギ3本、大根1本入っていました。野菜が高いことがTVのニュースで報じられているので、送ってきたのでしょう。
80歳に近い義姉は、目の黒いうちは米を送るよ、と云っています。
何歳になっても兄弟は兄弟、・・・兄弟、ふる里は有り難いです。
久し振りのふる里(番外編) [ふるさと]
きょうから9月。きょう9月1日は防災の日です。
大正時代の「関東大震災」まで戻らないにしても、15年前の「阪神・淡路大震災」を思い浮かべて、わたしはなにができるだろうか、なにをすべきだろうかと考えることにしています。
前回まで3回にわたってアップしたものでふる里は終わりと考えていたのですが、大事なことを忘れていました。
お墓参りです。ふる里に帰る大きな目的です。
田圃のなかを10分余り歩いたところに墓地があります。田圃のど真ん中で共同墓地、お寺さんが側にありません。従ってこの墓地は宗派は関係ありません。お葬式の時は和尚さんが来ます。(告別式をし、火葬してすぐ納骨)
墓石の前でお線香をつけて手を合わせると、結局、両親やご先祖様に、家族が健康で幸せに暮らせますようにとお願いすることになってしまいます。お墓参りの本来の目的からは外れています。前回お墓参りしたのは・・・数年前で記憶に何年とないのですが・・・亡父の50回忌、亡母の33回忌の時です。
我が実家は百姓ですからは家系図のようなものはありません。言い伝えだと思うのですが、今から約300年前、享保の頃どこかから流れてきて住み着いたようです。以前は、屋敷の片隅に10個ほどのご先祖様のお墓がありました。小さな石の薄い板を土に差し込んで立てたようなものです。それには死んだ年数は読めたそうですが、戒名や名前はなかったようです。それから我がご先祖様はいつ頃から住んだかを推測したようです。
でも、住まいのすぐ裏に土葬のお墓はどんなもんでしょう。
お参りを済ませて周りの墓石を見て驚きますね。墓石の傍の戒名、名前、没年、没年零が刻まれた石板を見ると、やはり近年は長生きだった人が多いです。
みんな長生きで医療費がかかる・・・これでは健康保険がたまらないと後期高齢者なるものを設定しなければならなかったお役人さんの苦労をがわかります。働くだけ働いたんだから早く逝きなさい・・・と。
江戸時代の人口は3000万人いなかったんじゃないかな?人口が増えないように調整していた?なぜ調整?食糧問題があった。どうやって調整?間引きがおおきかったようです、それと姥捨て山の割合は?こういった仕方はお役人のDNAに連綿と引きつがれているんですね。
これからの日本は、戦後生まれがどんどん逝って、少子化だから人口は減る。その結果、食料の自給率がどうのこうのと云うことも解消される。今の人口は1億2千万人、それは四分の一の3000万人になってちょうどいいのかも。
炎天下でお墓を見てくだらないことを考えました。
ふる里に帰ってぜひ見たいものがありました。星空です。人工の灯りで都会では空が明るくなり天の川も見られなくなりましたが、ふる里に帰れば・・・と。いかに田舎でも子供の時のようには見られないだろうが・・・期待していたのですが、見事に外れました。満月に近い月が煌々と輝いていました。
田圃の一角に畑があり花が咲いていました。そこに見ると4種類のチョウが舞っていました。
わたしとしては珍しくチョウを撮ろうと頑張りましたが、やっぱりダメでかろうじて1羽だけ撮れました。
大きなアゲハも撮りたかった!
田圃のあぜ道に白いツユクサが咲いていました。
ツユクサは青い花とばかり思っていたのですが、白いものもあるとは知りませんでした。
写真を整理していたら、チョウの写真がもう一枚ありました。
もっと絞れば奥のチョウも撮れましたね。
とりとめのない内容にお付き合いいただき有難うございました。
久し振りのふる里(お終い) 実家 [ふるさと]
3泊4日の久し振りのふる里を訪ねる旅は今回でお終いです。
実家を訪ねました。
実家から3、4分歩けば上の写真の風景となります。左上の方に東北本線の電車が走っています。これが我がふる里の風景です。ここで80歳になる兄が農業をしています。
わたしが生まれ育ったところは仙台平野の北端、隣が岩手県という栗原市です。平成の大合併で前は栗原郡だったところが市になりました。
栗原市といえば一昨年、岩手・宮城内陸地震の時盛んに報道されました。幸いにも実家は地震の被害がありませんでした。大きい被害を被ったところから車で30分ぐらいのところなのに。地盤というか地殻というか、それがよかったようです。兄の話では、それでも地震のとき何かにつかまっていないと立っていられない程だったそうです。それなのに建物に被害なし。飾り棚の中のこけしが1本も倒れていなかったそうです。家の建て方にも問題がありそうです。
学んだ小学校に行ってみました、実家から3分もかからないところにあります。
強者どもが・・・ではないですが草ぼうぼうでした。体育館が残っているだけ、勿論後年建てられたものですが。わたしたちが学んだ頃は正面奥に木造平屋建てがありました。外廊下の校舎です。外廊下とはお寺さんの本堂の外側についている回廊のようなものです。
建てられてどれだけ経つかわかりませんが新しい学校です。
現在、生徒全部で33名とのこと、一番少ない5年生が5名。複式学級もあるようです。先生は10名とが11名とか。
子供が少ないんですね、何度も話が出たのだそうですが、いよいよ来年までで町の学校と統合になるようです。明治も早いときに開校され亡父も兄も学んだ学校がなくなるというのは寂しいです。今まで存続されたというのが奇跡かも知れませんが。
話変わって海の幸も堪能してきました。ホヤはホヤ酢にしたりシソ巻きにしたり。お刺身は鰹が旨かった!ねっとりした感じでマグロ(赤身)より旨かった!戻り鰹ですね。義姉さんに云ったら「マグロの方が値段が高い」と云われましたが。
野生の動物の農作物への被害が多いようです。近くの、堤防が県道になっているところに「動物注意」の標識が立っており、それには狸が書いてありました。狸がたくさんおりトマトなどに被害が大きいとのこと。他にテンやハクビシンそしてカモシカやシカも出るとのこと。平地にですよ。河川敷なども手入れがされなくなったので住み着いたようです。
実家には2泊してきました。暑かった!それでも夕方はまだ日中の熱が残り暑いですが朝方は涼しかったです。それにしても少しは凌ぎやすいかと思ったのですが、完全に期待はずれでした。
久し振りのふる里。いいにつけ悪いにつけふる里には思い出がいっぱいでした。
長い文章にお付き合いいただき有難うございました。
久し振りのふる里(中) 同級会 [ふるさと]
少しは涼しいだろうと期待して来た仙台も暑い日でした。
それでも頑張って街を散策し、4時に出るホテルの送迎バスに乗るべく仙台駅前に。
送迎バスがいました、貸し切りということで。集まってきました、懐かしい顔が。仙台駅から秋保温泉のホテル・クレセントまで30分余り、女性陣は話に花を咲かせていました。バスの窓から外を見ると、住宅地が広がっていました。
わたしたちは昭和28年3月に小学校を卒業しました。仙台平野の北端、水田地帯の小さな小学校です(全校で160人ぐらい)。卒業生28名(女:15名、男13名)。
今回の参加は女性8名、男性8名の合計16名。物故者が男性3名ですから、男性の参加率がよかった。
わたしたちは昭和22年4月、敗戦間もなく入学しました。ランドセルもなく着るものも・・・。入学1週間ぐらい前に父親にひらがなで名前を書く練習をさせられたことを覚えています。その時理由はわかりませんでしたが、それはこの年の3月に新しい「教育基本法」・「学校教育法」が交付されたのでした。
宴会場は、歳が歳だから足腰が痛い人が多いだろうと、こういう宴会では珍しい椅子式でした。幹事の配慮です。一皿の量は少なくサラ数の多いお料理は美味しく、飲み放題のアルコールは何でもあり。ただ、女性が半分を占めていたのでホテルは儲かったでしょうね。飲み、食べ、話をし、カラオケで歌い楽しい2時間半でした。その後は部屋に戻り集まり2次会。いろいろな話が、やはり小学校中学校時代の話が出ました。
先日、仙台市に本社のある「河北新報」に載った川柳を教えていただきました。
「古稀(こき)の会 病気自慢と孫自慢」
わたしたちも古稀です。まったくこの川柳の通りでした。ほとんどの人が薬を飲み、孫がいて。医療費がふくれあがるわけです。
いろいろ話し合った中に「いじめ」についてもありました。「我々の頃はいじめがあったか」ということに「あった」と答える人が多かった。小学校の時はなかったが町の中学校(1学年300名以上)では小さな小学校から行っていじめられたという話や、いじめられているのを見たという話。ただ、その頃のいじめは言うなれば喧嘩、武力闘争で長引くことは無かったのではないかと。
夜遅くまで、話が弾み(アルコールは進まず)睡眠不足が心配されたが、5時には起きて大浴場へ。熱めの朝風呂は気持ちがいい!
外に出てみたらさすがに涼しかった。久し振りにひんやりした空気に接した。
ホテルの前庭、広々とした芝生と緑の木々、そして雲ひとつ無い青空。(8/23朝撮影)
宿泊したホテル・クレセントは温泉街から離れたところにありました。周りは緑緑でした。
部屋から水の流れる音が聞こえたので覗いてみると小さな流れがありました。自然の谷川です。降りて川のそばまで行きたいと思ったのですが、通路が整備されていませんでした。もったいないなあと思ったものです。
朝もゆっくりし、ホテルの送迎バスで仙台駅まで送ってもらい解散。次回集まることがあるのかどうか。
わたしは東北自動車道を通る高速バスに乗って実家へ。
そのことは次回に。
長い文をお読みいただき有難うございました。
久し振りのふる里(上) [ふるさと]
8月22日に仙台市近郊の秋保温泉(あきゅうおんせん)で小学校の同窓会があったのでそれに参加し、足を伸ばして宮城県北、岩手県との境にある実家(栗原市)に墓参りに行って来ました。
折角仙台に行くのならば様変わりしたであろう仙台を少し見てやろうと、夕方4時のホテルの送迎バスまでに仙台に着けばよいものを正午前に着くように計画。
仙台では先ず青葉城に行こうとインターネットを見ていたら、仙台市交通局の観光バスがあることを見つけこれに乗ってみようと。
仙台市中心部の観光スポットをレトロなバスが一周70分くらいで廻っています。一日乗車券が600円(大人)で何度も乗り降りできるので、見たい施設を順々に見ることができます。
わたしの目的は青葉城だけでしたから、一日乗車券は買わずに、降りるときに250円支払い。日曜日ということなのかバスはギュウギュウ詰めで15分間隔の運行ですが足りず臨時も出ていました。
実は、わたしは35年ほど前、仙台で暮らしていました。腰を落ち着けようと60坪の土地を買い30坪の小さな平屋の家を建てたのでした。
しかし、運命のいたずらか都に落ち、結局その家には数年住んだだけでした。その家は売りローンの精算をし、残ったお金を今住んでいる集合住宅の頭金にしたのです。
都に落ちなかったならどんな生き方をしていたか、ときどき考えます。そんなわけで仙台は懐かしいのです。
青葉城とわたしは云っていますが正式には仙台城なんですね。伊達62万石。伊達政宗が造った居城。
青葉山のお城だから雅称青葉城だそうです。
東は断崖と広瀬川、南は峡谷、西は原生林と天然の要塞に政宗が目をつけ築城。
この城跡には何もありません。最初から天守閣は造られなかったそうですが、大手門や櫓などの多くは太平洋戦争で焼失。
今は定番のポーズで政宗が仙台市の発展の様子を見ているだけです。
逆光のため顔がつぶれてしまいました、独眼竜かどうか判断がつきません。
政宗が眺めている仙台市の中心部。この幅では全体を撮るのに4,5枚必要でしょう。そんな広さです。
右手奥には太平洋が見えます。
この写真の手前が断崖で下には広瀬川。
バスに乗っていろいろ眺めないのはもったいないと歩くことにしました。仙台駅まで3Kmくらい。のんびり歩いても1時間かかりません。でも暑かった!
山を下りてきて広瀬川。
鮎釣りをしている人がおりました。
この写真の奥くが上流です。
さとう宗幸の「青葉城恋歌」が流行った頃、広瀬川や七夕や青葉通りを懐かしんだ人が多かったと思います。
仙台は「杜の都(もりのみやこ)と昔から云われています。緑が多いです。
右の写真なぜか変です(ピントが合っていないのか手振れしているのか)が、青葉通りのケヤキ並木です。
30数年前よりも幹は太くなり枝は広がり道路上は緑一杯です。
道路によってはイチョウ並木だったり、仙台に住んでいる知人は当たり前の顔をしていましたが、わたしにとっては驚きでした。
仙台は郊外に住宅地が広がり、繁華街も変わっていました。さすが政令指定都市です。
仙台といえば杜の都であり、青葉城であり、食べ物では「笹かま」が有名でしたが、今は何処へ行っても「楽天イーグルス」。駅の土産物売り場には「牛タン」。
暑い中でしたが、1時間余りあっちにふらりこっちにふらりと街を堪能しました。
4時のホテルの送迎バスに乗って懐かしいみんなに会います。
それはまた明日。長々と読んでいただき有難うございました。
春の知らせ・兆し [ふるさと]
東北の片田舎で生まれ育ったとはいえ雪深い山里ではありませんでした。が、今は積もらなくなりましたが30cm程度の根雪がありました。
子供のころは雪合戦をしたり雪だるまを作ったり雪は遊び友達で少しも苦にしていませんでした。寒さも池や堀に氷を張らせるのでスケートで楽しむことが出来ました。そのためか雪がとける春を待ちわびるということはあまりなかったようです。
雪解け・春を心待ちにしたのは大人になってからです。仕事で自動車で走らなければならない冬の状況は苦痛でした。滑りやすい雪道やアイスバーンは大げさに云えば命がけだったのです。降雪の季節を迎える11月末には気持が落ち込み雪のない世界に住みたいと心から思いました。
春の兆しが見えたときのうれしさは例えようもないものでした。
既に雪が消えた道路を走っていて、まだ雪が残っている林を見ると、木の根元を囲むように雪が消えています。私にとっては春の知らせ・兆しでした。お天道さんの熱で暖まった幹が雪を溶かしたのです。
東北を離れてからも、私は春の兆しとしてその情景を思い浮かべていました。
(webからコピー)
私が春の兆しとして心に決めていたのはこの絵の情景なのです。現実はもっと太い木もありますが。
この絵は、小野竹喬(おのちっきょう)という日本画家の『宿雪(しゅくせつ)』という絵です。
実はこの画家のことを少しも知りませんでした。高名な人でした。
朝日新聞3月31日夕刊でこの絵が取り上げられていて初めて見ました。
私がずっと春の兆しとして思いこんでいた風景が絵になっていたのです。
木の根元の丸い雪解けを"根開け"と云うそうですが、"ねあけ"と読むのでしょうか、国語辞典には出ていませんでした。
"宿雪"は国語辞典にあり、残雪のことを云うそうです。
なんと日本語の表現は豊富なのでしょう。
桜前線は北上中です。それに伴って私の心もふるさとやかって住んだことのある土地に飛んでいます。雪が少なくなったとは云ってもふるさとは今どうしているだろうと。根開け、宿雪は見られるだろうか?
~辛夷咲く あの丘北国の 北国の春
辛夷は既に散り、桜を待っているのでしょうか。モモはりんごは?