今年もまた暑い8月がやってきました。 [考える]
毎日一番の話題は「気温」ですね。同じ話題でも気温が低くなるということだといいのですが。
今週半ばには台風13号が関東に上陸しそうです。自然は次々と厳しいことを突きつけて来ますね。
今年もまた気が重くなる8月を迎えました。
きょう8月6日は広島に、9日は長崎に原爆が投下された日です。3月には東京に焼夷弾による
無差別爆撃があり、また、全国各地が爆撃され日本は焦土と化しました。皆さんもご存知のように沖縄
では日本での唯一の地上戦となり悲惨な結末となりました。これらを思い出す時胸が締め付けられます。
そして8月といえば8月15日。終戦記念日と云われていますが、わたしはあえて「敗戦を忘れては行け
ない日」と決めています。
真珠湾攻撃をした年にわたしは東北の片田舎に生まれました。そのため開戦から敗戦そして戦後の
混乱のときなにもわからない歳でしたから幸せだったと云えるでしょう。敗戦後の物資不足のときも幸い
ひもじい思いはしませんでした。大人は食うものがなく苦労しましたね。我が家は稲作農家でしたが、白
いご飯はお盆とお正月にしか食べられなかったのです。後は麦はいいほうで、大根の葉などを入れた
糅飯(かてめし)だったのです。
誰が国民を塗炭の苦しみにぶち込んだのでしょう。簡単に云えば一握りの政治家です。というとその
政治家を作り支持したのは誰かということになりますね。責任は国民に戻ってきて、一億総懺悔なんて
いう言葉もそこから出たのでしょうか。
日本人はひとがよすぎます、やわです。自分が悪者になることを必要以上に進んでやります。上に
敗戦を忘れてはいけない日と書きましたが、敵を絶対に忘れてはいけないのです。喧嘩は片方だけが
悪いということはありません、こちらが悪くても徹底的に戦うべきだと思うのです。一億総懺悔は必要あ
りません。
そして、絶対に忘れてはいけないのがもう一つ、一握りの政治家によって国の、国民の未来
が危うくされることがあることを。
もしTVがこの世になかったらと。
全世界の戦没者に思いを馳せて。 (8月15日) [考える]
ところが起きてみると小雨がぱらつき空には厚い雲。諦めたのですが、9時ころ空が少し明るくなり
セミも鳴き出したので雨はもう降らないだろうと勝手に決めて9時半頃出かけたのでした。
ます。(以前は30分歩いていたんですが、最近はバスに乗ってしまいます)
この交差点の左側に横浜市環境活動支援センター、横浜市児童遊園地があります。ゆるい坂道を
五分ほど歩くと右側に横浜市こども植物園があり、その先道なりに五分ほど進むとこの日の目的地、
「英連邦戦死者墓地」があります。
あります。総面積は約8ヘクタールだったと思います。
この墓地には全体で1,555人が葬られています。他に納骨堂に収められている戦没者も。
東南アジアで日本軍の捕虜になり、日本に送られて工場などで働かされ連合軍の艦砲射撃や
空襲などで死亡した人たちです。
アメリカは死者は本国に移送して葬りますが、イギリスは死んだところに葬るんですね。
れてここに眠る外国の兵士に手を合わせるだけではありません。まだ南国の島に残っていると云わ
れる日本兵や沖縄、長崎、広島そして東京や大都市で亡くなられた国民、勿論中国大陸や南の島で
闘い戦死した兵士・・・・全世界の戦没者を悼み、戦争の悲惨さを忘れないために訪れているのです。
戦争は絶対してはいけないと。
時に訪れています。サッチャーさんも訪れたと思います。山手の外人墓地は有名で観光地のようにみ
なさんが訪れていますが、この英連邦戦死者墓地は知らない人が多いのではないでしょうか。それは
あくまでも墓地であるということから宣伝等を一切していないからだと聞いたことがあります。
大事にしているんですね。
嫌いなのです。
英連邦戦死者墓地 [考える]
きょうは大東亜戦争終戦の日でした。
毎年訪れる「英連邦戦死者墓地」へ行ってきました。第二次世界大戦の戦死者、爆撃などで亡くなられた
市民に手を合わせたい、戦争というものを考えたいと毎年訪れています。
バス通りに面した正門。
アメリカ合衆国の文字もあるがここには葬られていない。米国は戦死者の遺体を本国に送って埋葬する。
イギリスは戦死者の遺体は本国に送還せず、階級差なく現地で埋葬するのが原則。
墓地への入場門。最初はイギリス区。
墓地は他にオーストラリア区、カナダ・ニュージーランド区、インド・パキスタン区、戦後区に分けられている。
きょうはイギリス区だけを訪れた。
第二次世界大戦における捕虜の死者や戦後のイギリス連邦占領軍の任務中の病死・事故死者も含み、
2014年時点で約1,800名が埋葬されている。
日本を訪れたイギリスの要人、エリザベス女王、故ダイアナ妃、ウイリアム王子、サッチャー首相が墓参に
訪れています。
日本武道館で全国戦没者追悼式が行われました。
天皇陛下のおことばには、戦争をしてはいけないという固い想いが強いように思われました。
昨今の日本は近隣の国との対応で戦争も辞さずの雰囲気になっているように感じられますが、戦争をしない国で
あって欲しいです。勿論、攻められたら追っ払うことは絶対に必要ですが。
TVを見ていたら終戦記念日のことも全国戦没者追悼式のこともニュースとしてあまり放送されていませんでした。
SMAPが解散するということのほうが重大ニュースでしたね。そのことからも終戦後71年経っているので、戦争
体験者が少なくなり、戦争の悲惨さが云われることもなくなっている・・・風化しているというか世代が代わっている
というか。
上の写真で下から二枚目の墓石には次の文が刻まれていました。
THOUGH YOU REST SO FAR AWAY
YOU WILL ALWAYS BE REMEMBERED, MY SON
本日はこれにて。
日本という国は壊れている。 [考える]
心楽しい三月を迎えたというのに心は重く鬱々としています。
自分の身体で云えば喉が痛くて堪りません。つばを飲み込むのも一苦労。クリニックで貰った薬を飲んでいるのだが、治る気配なし。
突然ですが、日本という国は壊れたのではないでしょうか。
わたしは評論家でもTVのコメンテーターでもありませんから、論理的に検証して思っているのではありませんが、何か変になっていやしないかと思っています。
壊れたと思っている理由のひとつ。
今、働く人達の置かれている状況で、正規従業員と非正規従業員の構成比率が60:40だそうです。非正規従業員には同じ仕事をしながら、収入面で格段の差がついているようです、いつ馘首されても文句は云えないんです。
みなさんはすでにお分かりですからぐだぐだ申し上げませんが、経済界の要求通り非正規従業員がどんどん増えるように政治は動いています。
下の写真は2月14日の雪で倒れた木です。樹高は6、7mあったと思います。近くに寄れませんでしたのでなんで倒れたのか原因ははっきりしませんが、遠くから見たところでは根が弱っていたようです。
今は大丈夫に見える日本国もこの木のように突然倒れる気がしてなりません。倒れてから、壊れてからなにを云ってももう遅いです。
根が張っていたようには見えません。
この木は何の木だったかなあと考えていてそうだ去年撮った写真に残っているはずだと捜しました。
ありました、去年4月の写真です。
倒れた木ははじめ桜と思ったのですが、写真の左手前の木です。何の木だったか記憶にありません、ソメイヨシノとメタセコイアにばかり目が行っていました。
世の中でなにが起きているか、この写真のように世の中の片隅で目を引かないことが多いようです。
沖縄の基地問題、集団的自衛権から憲法の解釈を変えようとか憲法を変えようとか、戦争ができる普通の国にしようとか、・・・・・東日本大震災の復興問題、福島の東電原発事故はどこかに行ってしまっているように思えるのです。
わたしはいつまでもこの美しい桜が見られる国であって欲しいと思っているのだが・・・。勿論、喉の痛みが早く消えることが最優先事項ですが。
本日はこれにて。
一山百文なんだ! [考える]
(梅雨の中休みのある朝、お天道さんは草むらに燦々と降り注いでいました)
先ごろから復興予算が流用されていると報じられている。東日本大震災からの復興のために使われるべき予算が何の関係もないところで使われているのだ。
流用できる法律を作り、どう使ったかのチェックもなされないとは優秀な官僚と政治家は、このために新たに国民に別枠で課した税金をどう理解しているのであろう。国民は今後25年間、復興特別所得税が徴収されるのだ。
ザル法を作った以上に優秀だと思われるのが、抜け道を利用して申請し、流用した地方の公務員である。こういうのを火事場泥棒というのではなかろうか。大震災発生後、略奪などもなく日本人は素晴しいと云われたが・・・。東北の復興なんかどうでもいい、自分のために使おうと考えたのだろう。本来ならば、抜け道があってもこの金はこういう使い方をしてはいけないとブレーキがかかるのは人としての常識であり良識だと思うのだが。
米国の文化人類学者ベネディクトは、日本人は外からどう見られるかを気にする「恥の文化」だとしている。欧米では神と約束するが日本人は人がどう評価するか、即ち悪いことをしても他人に見られなければいいとする。そこには善悪を自分で判断しないということになる。いや判断できないのか?
東北の復興なんかどうでもいい・・・思い当たることがある。
「白河以北一山百文」という言葉がある。この白河(しらかわ)は現在の福島県白河市であり、「白河の関」でご存知の方もおられるでしょう。
東北が明治政府に冷遇されてきた歴史を如実に物語るものだ。
幕末、会津藩は官軍、薩摩・長州軍と戦わざるを得なくなり、敗れた。『白河以北』というのは、勝利した薩摩・長州勢が、「東北の山は一山百文の値打ちしかない」と蔑視した言葉だった。今もこの言葉が脈々として存在しているのではないだろうか。 しかし、蔑まれようと蔑視されようと、その言葉を胸に東北人は復興へと向かい成し遂げてきた。
いま未曾有の災害を受け復興に立ち上がっているが、明治のときと同じように東北は再度立ち上がるだろう、冷遇されようと中央の助けを期待せずに。
話はチョッと脱線するが、大震災で発生した廃棄物の処理を積極的に引き受ける地方自治体は少ない。沖縄の米軍基地の負担軽減のために米軍の基地を引き受けると名乗りを上げる地方自治体も聞かない。自分さえよければあとはどうなろうと知ったことではない。わたしは思うのだ、軽々しく「絆」という言葉を使わないでほしいと。
宮城県仙台市に「河北新報」という日刊紙を発刊している河北新報社があるが、この社名は「白河以北一山百文」に由来する。明治維新以来、賊軍として軽視されてきた東北の歴史とともに、屈辱を忘れまいとする東北人の反骨の意思が込められている。
老いて欲がなくなり幸せな気持ちでいても、このようなニュースを耳にすると不幸せな気分になる。落ち込んだ気分で皆さんの「ひとこと」を拝読することは申し訳ない。そのため「ひとこと」欄は閉じる。
乱筆乱文御免。本日はこれにて。
人間は御し難し! [考える]
とある小学校の登校風景です。
この時間は午前8時ちょっと過ぎです。子どもたちは校門から入れる時間になるのを待っています。
8時5分頃になればこの狭い歩道は80mくらい先までいっぱいになります。
以前は登校時間は(校門をくぐれる時間)8時10分から25分までだったと思いますが、今は8時5分から入れるようです。
ボランティアの人たちが道の要所要所に立ち、校長先生は校門で子どもたちと朝の挨拶をします。
10年ぐらい前になるでしょうか「付属池田小事件」がありました。
その後学校は入る人間に対し厳しくなりました。この登校のその一環でしょうか。閉ざされた学校という感じがします。
わたしが子供の頃は校門はいつも開いていて、早く行って校庭で遊んだり、終業後も先生から帰れと云われるまで遊んでいました。
「秋葉原通り魔事件」もありました。
人間がなんでこういう事件を引き起こすのか、現代の社会情勢に問題があるのではないかと思いました。
写真のような登校風景を見ていてこんなことを思ったのですが、なん年か前に読んだ山本周五郎の「ながい坂」(新潮文庫)を思い出しました。背景は江戸時代です。正確な文言は覚えていませんが、だれでもいい、殺してやりたいという若い武士だったかしゃべる場面があったと記憶しています。と云うことは、だれでもいい殺したかったということは現代だけのことではないようです。
また、人間は善だけの人はいない、悪だけの人はいない、両方併せ持っていると山本周五郎は云っていたと思います。
江戸時代に、だれでもいい、人を殺してやりたいと云う風潮が記録にあり(例えば辻斬り、試し斬り)小説に取り入れたのか、この小説は昭和41年(1966年)2、3月に新潮社から刊行されていますが、執筆当時こういう風潮があったのか、興味がわきます。
毎朝TVをつけると殺人事件のニュースです。人間とは意外に学習せず厄介なものですね。
きょうの付け足し:朝の月
気分直しに11月10日の朝の月です。白飛びしてしまいましたが、形だけでも。
<追記>
12日13日と一泊で三浦海岸に行ってきます。「ひとこと」蘭は開いておきますが、お返事が遅れることが考えられます。また、皆さんのところへお伺いするのも遅くなると思います。ご容赦願います。
わたしは学生時代は「新聞会」なるものに所属し、年数回2ページや見開き4ページの新聞を発行していました。記事を書き広告を取って、そして印刷所にこもって校正をして。50年ほど前のことですが、その時の先輩後輩が年に1回集まるのです。昭和60年から集まりだし、今年は28回目とか。時々ですがわたしも参加していました。
例年、地元の山形県内が会場となっていましたが、初めて関東で開かれることになりました。
鬼籍に入った先輩もおりますしいつまで開催できるか、大事な集まりだと思っています。
本日はこれにて
貧乏とは? [考える]
暑い日が2日ほど続きました。
「異常気象」という言葉に嫌や顔をして敏感に反応するわたしの目の前で、連れ合いは明日からの改装工事の最後の準備をしながら汗を流し、「異常気象」を連発ししていました。
いよいよ明日からダイニングキッチンの工事です。明日は流しやガス台などを取り外します。新しいシステムキッチンが据付完了するのが21日の予定。3日間あるいはプラス1日間は流しもガス台も使えません。ご飯は電気釜で炊けるでしょうが、おかずをどうするか問題です。そして皿や茶碗を洗面所で洗わなければなりません、これも問題。
今のところ料理は作らない、出来合いの惣菜を買ってきてチンするものはチンする。味噌汁の代わりにカップなんとかにするとしました。出来合いの惣菜を買ったことがないので、うまいのかなあなんて。いっそ弁当がいいのではないかなどと。
明日から電話やインターネットの接続機器を日中は外さなければならないことがありそうです。従いまして皆様のところには早朝と夜にお伺いすることになり、遅くなることがあるかもしれません。ご容赦ください。
話は変わって
わたしはBS日テレが放送している「小さな村の物語 イタリア」(土曜日21:00~21:54)という番組が好きで見ています。
経済的には決して豊かでない小さな村で、人々は生きています。人間の暮らしとはこんなことなのかと思わせてくれます。
わたしがイタリアを見ているよりはずっと深く日本を見た人たちがいました。幕末・明治のはじめに日本を訪れた外国の人々はその日本の印象を書いています。ほぼすべてに共通しているのは、「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」と。
大森貝塚を発掘したアメリカ人モースも、「貧乏人は存在するが貧困は存在しない」と云ったそうです。
欧米の考え方の基準では、一般に裕福とは幸福を意味し、貧しいとは惨めな生活や道徳的堕落など絶望的な境遇を意味していたそうです。
(上の文は、藤原正彦著「日本人の誇り」文春新書を参考にしています)
わたしとしては受け入れ難い所がありますが日本人は幸せに暮らしていると見えたのでしょう。
河上肇はその著書「貧乏物語」の中で「貧乏とは何か=体や知能など生まれ持った天分を伸ばしていくのに必要な環境を得ていないものはすべて貧乏と称すべきだ」と云っているそうです。
貧乏って何?、貧困て何?、 わたしは貧乏なのだろうか、貧困なのだろうかと考えると朝方眠れなくなってしまいます。年金をもらう年齢が段々遅くなる・・・政治家・官僚の皆さん、自分のことは自分でやるから何も構わないでください。
イタリア大好き人間のわたしは次に生まれて来るときはイタリアの山の中の小さな村に生まれてきたい。経済的に苦しくても家族愛、郷土愛を育んでのんびりと生きたい。日本の昔はそうだったのかな。
この番組のうしろに流れる歌がまたいい!
きょうの付け足し;
明日から家の中がどうなり自分たちはどうすればいいか全然わかっていない愛猫の昼寝姿です。大好きなママのベッドの枕元と足の所で寝ています。仲がよくなく絶対にくっついて寝ません。
チビ;13歳、おばあちゃんです。
何をしようと目を開けません,寝たふりしています。人の心を読んでいます。利口です。
支離滅裂 [考える]
今朝の室温16℃、ベランダの温度計は6℃。この秋?冬?、初めて車のフロントガラスが凍っていた。霜取りを吹き付けタオルで拭いたがまた凍った。冬なんですね、もう。
人間は地球上の自然の一部なんだ、生きるものすべてと同等の生き物なんだ。しかし、ちょっとした知恵が付いて、火を使うようになって、地球上では人間が一番偉いと思うようになった。周りを征服し、従え、すべて人間は自分のためになにをしてもいいと思うようになった、強いんだから。進歩、発見、発明、幸福などの理由を付けて。
しかし、挙げ句の果てに、人間同士が覇を競うようになった、様々な理由は付けるが、なんのことはない欲望。
人間だけではありません、自然界では生きるものすべてが生き残らんがため、勢力を保持いや伸ばそうとしている。弱肉強食。しかし、その一つが突出しても、食うものがなくなり衰退せざるを得ない、食物連鎖。そこにバランスが生じる。突然の環境変化が起こらない限り右に左に振れながらもバランスが保たれる。
知恵のついた人間は、ほどほどを大事にすべきなのに、突き進んでしまう、バランス感覚ゼロ。有史以来戦闘・戦争は続いているが、未来永劫、権力欲にまみれた人間が存在する限り無くならないだろう。戦争を回避しようと努力している人たちがたくさんいる、が、権力者の思惑で吹っ飛ばされてしまう。
スポーツセンターで、ランニングマシン云うならばベルトコンベアの上で、或いは踏んでも進まない自転車の上で、いろいろのことを考えます。なぜなら、走っても踏んでも楽しくないいや苦しい、そんな状況ですからなにか考えないとやっていられない、しかし考えることは支離滅裂、上に書いたような状態なのです。
この頃、走りながら思っていること。
コロンブスの新大陸発見とは何なんだ、ということ。その大陸が新たにできたわけではなく、もともと地球上にあった、人が住んでいた、それを知らないのは西洋人だ、人の家に入り込んで美味しい日本料理を見て新発見、と。
努力しているのに、夏に肥えたわたしの身体は痩せてくれない。
大分認知症が進んでいるんじゃなかろうか。
きょうの付録
皆さんの素晴らしい紅葉をたくさん拝見。つくづく日本人は紅葉が好きなんだなと思いました。
12月3日、強い雨風で保土ケ谷公園の紅葉も痛めつけられましたが、わたしが一番好きなところの紅葉を見てくだい。
約100mに渡って斜面にいろいろの木と混じり合っています。自分だけが目立とうというのではなくほどほどです。
1枚目の写真の人が歩いている遊歩道は、イチョウの絨毯でしたが、きれいに片付けられていました。片付けないと文句を云われるそうです。
(12月7日撮影)
12月8日 [考える]
きょうは12月8日。何の日でしょう。
真珠湾攻撃が行われ、アメリカに戦線布告し大東亜戦争(戦後、連合国軍によって太平洋戦争と改められた)が始まった日です。
来年で70年。TVのニュースショウでは歌舞伎役者の不祥事を延々と流し、新聞にも関係する記事が見当たらない。もう、語り尽くし検討し尽くしたからニュースとする価値は無いということでしょう。風化したんですね。 わたしは忘れてはいけない日だと思っているのですが。
日本は平和です。散歩していると美しいものが次々と目に飛び込んできて・・・。
とあるマンションの植え込み。先日の雨風で飛ばされたか数枚の葉っぱが遠くから見られました。淡い色なのに目立っていました。幹に、「枝垂れ櫻」の名札がつけてありました。今年はあちこちで桜の紅葉が楽しめました。
遊歩道を歩いていたら、数m入ったところに、緑の葉っぱに何か白いものが付いた木がありました。
「柊(ひいらぎ)」ですね。小さなちいさな花です。これからどうなるか定点観察するところが出来ました。楽しみです。
過去を振り返るということは。 [考える]
当ブログの左サイドに、「Gremz」を貼っています。今回2本目の大人の樹に生長しました。生長するとNPOに頼んで植林してもらえます。主に中国やアフリカ大陸に植林されるとのことです。貼り付けただけで、なにもしなくても地球環境の改善に協力していることになります。
家庭内別居中のわたしの部屋の壁の一部です。
狭い部屋を益々狭く見せています。
にゃんこの時計、フウセンカズラ、永沢まこと氏の絵はがき「アマルフィ海岸」、ウフィツィ美術館の二階から撮った写真「ポンテ・ヴェッキオ」、シエナ・カンポ広場を描いたカレンダー、人形も少々。
もう少し寄ってみましょう。
あれあれ、2月のカレンダーですね。
カレンダーだけを取り出します。
2月です、FEBBRAIO。28日までしかありません。でも曜日は合っています。一年の中から曜日の合うものを探して掛けています。
このカレンダーは2006年のもの、ということは2005年にイタリアに行ったとき買ってきたものです。
こういったものを眺めているのは将来に夢が求められず、過去に思いを馳せているということで、老境に入ったということでしょう。
録画した古い映画「最高の人生の見つけ方」や「パピヨン」を見て「生きること、死ぬこと」についていろいろ考えているきょうこのごろです。