ラジオのよさを再認識。 [雑感]
散歩のとき、携帯ラジオをポケットにイヤホーンで聞いている。ただ歩くより楽しい。
このラジオは肺炎で入院した時、長男が差し入れしてくれたのだ。これには助かった。昼と云わず真夜中と云わずいつでも退屈を凌げた。
入院中にラジオを聴き始めたということではない。ラジオはいつでも聞いていた。ただし、カセットラジオを使いFM放送で音楽番組特にクラシックを聴くことが多かった。聴くというと一生懸命耳を澄ましてというのが普通だろうが、私の場合バックグラウンドミュージックとして聞き流していることのほうが多かったが。
ラジオを再認識している。
ラジオは敗戦後何年かしてわが家では初めて買った。それ一台で家族全員が歌謡曲を聞き、ドラマを聞き、浪曲を聞き、大相撲放送を聞いて楽しんだ。NHKの紅白歌合戦も。今でも浪曲がわたしの頭の中を流れるが、それは父親や母親が聞いていたのが耳に入っていたからだろう。歌謡曲は兄がよく聞いていたから戦前戦中戦後の歌謡曲・流行歌を知っているし、ドラマ「君の名は」は母親が聞いていた。
わたし専用のラジオは中学生の時買ってもらい、机の上に置いたときはうれしかった。それで受験勉強の放送を聞く約束だったと思うがが、その約束を果たしたかどうかは覚えていない。その頃のことで覚えているのは、文化放送だったか毎晩11時から放送していた村田英雄の歌謡浪曲である。「無法松の一生」だったか内容は忘れてしまったが、変な中学生だった、今思えば。
その後TV時代になってしまったが、ラジオはカーラジオで聞くだけだった。仕事は車で移動したのでラジオは情報源ともなり
無聊を慰めるものでもあったし楽しみでもあった。
入院中にラジオの楽しさを知った。それは人の話だ。一人だったり対談だったりだが、人の話には面白さがいっぱい詰まっている。音楽もいいが人の話もいい。TVと違って音だけの世界。さまざまな情景が頭の中に構築され、頭の中を駆け巡る。
きょうもまた梅だ。花も楽しんでもらいたいが名前も楽しんで貰えればと思う。
緑萼(りょくがく)だが単なる緑萼と一重緑萼があった。どう違うのだろう。花びらの数が違う?
楊貴妃:
関守
玉牡丹
養老
次回もまた梅になるでしょう。なにか見つけたいな。
本日はこれにて。
2013-03-04 14:15
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